みなさまこんにちは!
今日もブログを見に来てくださりありがとうございます。
今回の記事は太平洋戦争においての沖縄戦の話です。
悲しいお話ですので、無理に見てほしいとは言えないですがぜひ最後まで読んでいただけるとうれしいです。
文字多めです。
本編
せっかく那覇に行くのだから、平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館には絶対行きたい!と思っていたのですが港との距離が離れており、ギリギリ行けたとしてもゆっくり見られないのは悲しいと思い断念。
そこでフォロワーさんから教えていただいたのが「対馬丸記念館」でした。
対馬丸とは、太平洋戦争中に使用された疎開船のことです。
その疎開船がアメリカ軍によって沈没させられた「対馬丸事件」沖縄では必修で習う内容だそうで、
この機会にちゃんと学びたいと思い、対馬丸記念館を訪れました。

対馬丸が沖縄から長崎に向けて出港した日は1944年8月21日。
太平洋戦争でアメリカをはじめとする連合国軍と戦っていた日本は、サイパン島を落とされたことで「次は沖縄が危ない」と判断し、沖縄県知事に対し非戦闘員を本土または台湾へ疎開させることを指示。
対馬丸はこの指示を受けて疎開活動にあたっていた輸送船のひとつです。
対馬丸に乗り込むことを指示されたのはほとんどが子ども。
子どもたちの中には「本土に行けば雪が見れる」「富士山に登りたい」と期待に胸を膨らませていた子もいたようですが、
親は沖縄から九州にかけての海が安全ではないことをそれとなく知っていました。
子どもを乗せる船はせめて軍艦であってほしいという大人たちの希望を裏切って現れたのが対馬丸ほか貨物船2隻、護衛船3隻。
対馬丸は軍艦ではなく貨物船でした。
大人たちは、1661人(※数字は他説あり)を乗せた戦闘能力を持たない船を不安な気持ちで見送りました。

子どもも親も、どれだけ不安だったか想像もつきません。
実は、このときすでに対馬丸はアメリカの潜水艦「ボーフィン号」によって攻撃対象として目をつけられ、追跡されていました。
船が出港した翌日の夜、対馬丸の乗組員は追跡に気付きますが、船行速度の遅い船ではとても逃げ切れず、5本の魚雷を命中させられます。
攻撃はほとんどの乗船者が寝ている深夜におこなわれ、かつ、最初の魚雷命中からわずか10分足らずで対馬丸が爆発とともに沈没したため、たくさんの人が船倉に取り残されました。
海に飛び込んだ人たちはとにかく掴まれるものに掴まり、生き延びようとします。
しかし海は高波で、多くの人が波にのまれてしまいました。
なんとかいかだに乗って陸地に着くまで耐えようとした人の中でも、過酷な漂流に耐えられず力尽きて亡くなった人がたくさんいました。
対馬丸に乗っていた疎開者1,661人のうち、1,418人の方が亡くなりました。
これが「対馬丸事件」です。
公式HPに資料付きでもっと詳しい説明が載っていますので、より深く知りたい方はぜひ見てみてください。
対馬丸記念館には、事件で亡くなった子どものランドセルが展示されていました。

小さくて、海にもまれてボロボロになってしまったランドセル。
このランドセルに、お父さんやお母さんはどんな思いで荷物を詰めたんだろう。
このランドセルを背負って、友達と肩を並べて学校へ行って、勉強をして、たまにいたずらして先生に怒られて、放課後は友達と遊ぶはずだった女の子。

海の底に沈んでしまったちいさな命を思うと胸が張り裂けそうでした。
どうか今は天国で、お父さんお母さんと一緒に穏やかに過ごしていて欲しい。
「太平洋戦争において国内で唯一地上戦が繰り広げられた沖縄」
「たくさんの罪なき人々が戦争によって亡くなった沖縄」
学校で習ったりテレビで観たりして、たくさんの人がご存知ですよね。
わたしも知っていました。
でも、具体的にいつから沖縄で地上戦が繰り広げられ、
いつ終わったのか、
どのくらいの数の人が亡くなり、
沖縄の方々がどのようにして亡くなったか、
生き延びた方はどんな人生を辿ったのか
全然詳しく知りませんでした。
もっと詳しく知りたい、知らなければと思い東京に戻ってきてから図書館で何冊かの本を読みました。
わかりやすかったものを紹介しますね。
図説 沖縄の戦い
「図説」とあるとおり、たくさんの写真が載っています。
ショッキングな写真ばかりです。
でもその分、文字で見るよりもはっきりと「戦場」が見えました。
人が人でなくなるとはこういうことかと痛感しました。
池上彰の戦争を考える
こちらは沖縄戦だけでなく、日本や世界の戦争について言及された本ですが
どうして戦争は終わるのか、どうやって戦争は終わるのかといったとても興味深いテーマが詰まっています。
文章もとてもわかりやすく、初歩的なところから解説してくれているので中学生~読めると思います。
沖縄戦についても触れられています。
この中でとても印象的な話がありました。
それは1945年5月、首里の海軍司令部がアメリカ軍により包囲されもはやこれまでという状況で、沖縄戦で海軍最先任者であった大田実司令官が次官に打った電報についての一節。
1945年5月、首里の司令部が占領されると、南部一帯は地獄の戦場と化しました。海軍の司令部もアメリカ軍に包囲され、最後の時を迎えようとしていました。ここで、海軍の大田実司令官は次官に電報を打電しています。自らが命を絶つ前に打電したのです。そこには沖縄県民がいかに献身的に戦ったかが綿々と綴られていました。
「陸海軍とも、防衛のための戦闘に明け暮れ、県民に関してはほとんど顧みる余裕もありませんでした。県民は最初から最後まで、勤労奉仕や物資の節約を強いられ、ご奉公するのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、この戦闘を迎えてしまいました。沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して、後世特別のご配慮をしてくださいますように」
つまり、沖縄県民は最後の最後まで戦った。だから戦争が終わった後も、日本政府は沖縄県民のためにちゃんとしてくださいよ、と訴えている。
沖縄県民の行く末を案じた大田司令官の、いわば遺言だったわけですが、その遺言は果たされているのでしょうか。
ー池上彰「池上彰の戦争を考える」より引用
今年の6月23日に沖縄戦終戦から74年目になりますが、沖縄が抱えている、いや抱えさせられている戦後処理の問題は未だ解決していません。
大田司令官や、沖縄戦で命をおとしたたくさんの人々が今の沖縄を見たらなんと言うでしょうか。
わたしたち一人ひとりに、日本という国が沖縄に対しどんな「配慮」をしていくのか、しっかり監視する義務があると思います。
そして日本がふたたび戦争を起こさないように、ちゃんと政治に関心を持って、ちゃんと選挙に行って意志を示す。
これが戦争で亡くなった方々に対しわたしができる弔いの形だと思っています。
対馬丸記念館は海のすぐそばに建っています。
記念館を出た後すぐに、沖縄の綺麗な海を見て、海が綺麗であること、「きれいだな」と思えることがどれだけ幸せなことか痛感した日でした。
あとがき
すごく長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
いつものクルージング旅行記とはかなりテンションが変わってしまいビックリされる方もいらっしゃるだろうなとは思いつつ、
沖縄に行くからには、沖縄の悲しい歴史もちゃんと学ばなければいけない、そして学んだことを伝えたいと思っていたので省略できませんでした。
6月23日は沖縄戦が終わった、「沖縄慰霊の日」です。
3か月にわたり激しい戦闘が続いた沖縄について、少しでも多くの方が興味を持ってくださると嬉しいです。
わたしもこれからも学び続け、わたしにできることを考え続けていきます。
明日からは通常の旅行記に戻ります!
コメント
コメント一覧 (4)
momo
が
しました
momo
が
しました
momo
が
しました
momo
が
しました